こっこ

反社会組織

どう生きるのか

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私が生まれたのは1993年。生まれた時にはテレビがあり、ゲームがあり、電話があるのが当たり前の世代だ。自分がこういう世代だ、ということをはっきりと認識するようになったきっかけは東日本大震災の影響が大きい。その時に、原発事故が起こり、電気がなくなり、情報は溢れかえり、高校生だった私は自分が一体何者なのか、どういう世界に生きているのか、ということを真剣に考えるようになった。情報化、グローバル化、資本主義化、個人主義化(共同体の破壊)、社会の均質化。私たちは今、明治維新以降の目まぐるしい時代の過渡期に生きている。国という概念もなくなりつつある今、私たちは人類という枠組みで物事を考えなければならない。


明治維新以降、日本は沢山の変化を強いられてきた。ライフスタイル、価値観、信仰心など、そこで捨て去ってきたものは余りに多いだろう。科学や文明の進歩は私たちから何を奪ったのだろうか。

その中でも情報化社会がもたらしたものは計り知れない。文字、映像、音という情報が人間に与えるものはイメージだ。イメージとは人間にとって感情であり、感覚であり、価値観であり、思想であり、つまり人間の最も人間らしい部分を構成しているものだ。そのイメージが資本主義社会に利用されれば広告や宣伝になり、今やテレビの多くの番組が広告としての役割を担っている。テレビCMによって毎日刷り込まれるイメージの影響は恐ろしい。イメージは無意識の領域にまで侵入するからだ。私たちは無意識にみんなが同じ価値観になっていっている。街を歩く女の子たちのファッションやメイクや髪型までもが似たようなものになってきている。それは自分の感覚を失うということだ。何のために働くのか、という問い一つ取っても、生活費を稼ぐためという理由が殆どだろう。 そうして稼いだお金は誰かによって作り出された価値観によって資本主義経済の一部となり、生命までもがそこに組み込まれていく。こんなにも生きるということが虚しい時代は今までにないだろう。そして、グローバル化がこのような社会の均質化に拍車をかけている。さらに情報化とグローバル化が進むほど価値観は多様化し、共同体は破壊され、個人主義はより広がる。これらの現象は互いに拍車をかけあっているのだ。


かつての日本は貧しく、侘しかっただろうが、虚しくはなかっただろう。なぜなら人々は生きていたからだ。生きるとは、ただ生物として生存することではない。人間が生きるということはもっと感覚的な部分を大切にするということだ。そうでなければ、武士が美徳の為に切腹するという行為をなぜ理解できるだろうか。人間は動物ではない。ただ身体だけが生きていても、心が生きていなければ生きているという実感もなく、虚無感に苛まれてしまう。では心が生きる為に必要なのは何なのか、それは「何か」と繋がることだろう。「何か」とは、世界と言うこともできるし、神と言うこともできる。人間にとって、とても崇高で大切なものだ。その「何か」と繋がる方法は沢山ある。農業をすることはもちろん、物作りもその一つだったはずだ。物を作る時、そこに心があれば「何か」と繋がることができるし、それこそが物作りの本質であろう。

しかし、今の社会はその「何か」を蔑ろにしている。利益や、効率を優先しようとする余り、心が置き去りになってしまっている。先日、屠殺場を見学させてもらった時、そのことを痛感した。毎日沢山の動物が殺されていることは当たり前のことだ。人間が生きるためには生命を頂かなくてはいけない。しかしその行程の中からも心は置き去りにされているのが現状だ。作業も機械化していて、淡々と動物たちが殺されていき、捌かれてパックに入った肉を、誰も手を下すことなくスーパーで買う。命を頂くという事に対する悲しみや、やるせなさや、それでも命を頂かなくては生きていけない自分の存在を省みるという行為は今の社会では出来なくなってしまっているのだ。そういった社会の仕組みが「何か」と繋がることを困難にしている。


再び「何か」と繋がろうとするためには、人間の本質を突き止め、そこから生活や社会を見直していく作業が必要になるだろう。それはとても大変なことだが、絶対に必要なことだ。資本主義社会では富や財産が偏ってしまい、弱者は徹底的に苦しい立場に追いやられてしまうからだ。私は、芸術とは最も悲しい人、最も虐げられた人に捧げるものだと思っている。それは祈りのようなもので、人間の深い悲しみや、自分の力ではどうしようもない絶望的な状況が芸術を生み出すのだと思う。だからこそ芸術は人を感動させ、人の心を動かす力を持っている。

では現実的にこれからの世界を描いていく為には何ができるだろうか。まずは情報を受動的に受け取るのではなく、選び取る能力が必要となるだろう。私はテレビというメディアには情報を受動的に受け取らせる危険性があると思い、テレビを見ないようにしている。欲しい情報がある時は本屋に行って自分から探し出し、見たい映像は自分で選んで見る。それぞれが自分の価値観で物事を判断することが出来なければ、情報化の進んそだ社会では洗脳などの危険性も生まれてくる。情報が溢れかえるのは仕方のないことだが、それに対応した教育も必要となってくるだろう。

電気についても同じことが言える。こんな量の電気が本当に必要なのか、人間にとって心地よい明るさなのか、暗さによって際立つ感覚もあるのではないか、そして何より原発は必要なのだろうか。そういったことをみんなが考え直さなければならない。民主主義社会の日本では、市民が国の主導者を決めるのだ。まずは自分の感覚に立ち返り、本質を見極めなければならない。

建築に関しても、店や建物、街並みまでもがどんどんフランチャイズ化していることに危機感を覚える。どこにいても同じような街並みは果たして私たちが本当に望むような世界なのだろうか。私は初めて海外に行った時、日本と同じような店が並ぶのを見て、世界が狭くなってしまったような気がして悲しかった。私たちには必ず故郷が必要だ。何故なら、生まれて、育って、死ぬ、ということを通して、この土地と、地球と、世界と繋がっていたいからだ。自然の恩恵を受けることによって自然と一体化し、全てと繋がる感覚が私たちには必要なのだ。水に、木に、石に、土に、神の存在を感じ、怖れ、敬い、大切にするという感覚が必要なのだ。その感覚を取り戻さなければならない、ということにみんなが気づいた時、きっと世界はまた自然と調和していくだろう。その時は国という概念も取り払い、人類、生命、地球、宇宙といった規模で繋がり、生きることが出来ると信じている。

その過程で芸術が担う役割はとても大きいものだと思う。人間の心の奥に突き刺ささり、突き動かすものは、理屈や最大限の利益などではなく、感動だからだ。私たちは感じる力を持っている。人の悲しみを感じ、労わり、励まし、祈る力を持っている。みんなが持っている心に何かを突き刺し、突き動かさなければならない。それを可能にするのもやはりイメージなのだ。